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一人目は~【天智天皇】

みなさま、おはようございます~~~~

はい、はじまりました、シリーズ第一弾。

百人一首の第一の句ともいえるメジャーなあの句をお詠みになられたのが、この天智天皇さまなんです。

ということで、天智天皇さまに関するエピソードをつらつらと書いていきたいと思います。

まずは、天智天皇とは?ということからお話していきます。

きっとみなさま、ご存じだろうと思いますが、日本の第38代天皇であり、

天皇即位前のお名前は、、、

あの『中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)』なんです。

こちらの名前のほうが有名なのではないでしょうか?

そう、645年大化の改新です。

中臣鎌足と共に、蘇我入鹿を倒し、国家の近代化を推進した改革者であり、

飛鳥時代を代表する政治家です。

「近江令」の制定や、667年の大津宮への遷都という制度的な発展を進めたりと

現実的な視点で政治を行い、強力なリーダーシップを発揮し、

天皇を中心とした中央集権国家の基礎を築いた人物です。

さて、難しいことはこの辺にしておいて、

ここからは少し違う目線で見ていこうと思います。

天皇なのに?

百人一首にも取り上げられた有名な和歌、

「秋の田の~~~~」では、

天皇みずからが農作業の苦労を体感しているような内容にも思えます。

実際には田んぼ仕事していたわけではなく、農民の生活目線で詠んだものとされています。

「天皇なのに庶民的なことを歌にするなんて」と後世の人々に親しまれる人物でもあります。

琵琶湖好き過ぎて…

667年に都を飛鳥から大津(現在の滋賀県大津市:西川貴教のお膝元)に遷した理由が、

琵琶湖の景色に心を奪われたからという説があります。

表向きには、防衛のためということになっているようですが。

天智天皇が琵琶湖で遊覧していた際、水面に映る自分の姿を見て「自分の治世がこんなに穏やかであることを喜ぶ」といった発言をしたと言われています。

大胆不敵?

645年の乙巳の変で、蘇我入鹿を倒した際に用いた策が、

暗殺計画だというのに、その計画を実行する際、周囲の兵士達に「大きな声で威圧的に叫びながら進め」と命じたと言われています。

これにより、敵である蘇我一族の混乱を招き、一部の敵兵が戦わずして逃げたという記録があります。

まさに大胆不敵、頭脳戦の才覚が光るエピソードです。

好奇心旺盛な健康オタク?

日本で初めて『漏刻(水時計)』を導入したと言われています。

しかも、時刻を音で知らせるシステムも導入されました。

その背景には、規則正しい生活を推奨し、社会全体を健康的に保とうとする考えがあったと言われています。

「人々が朝の仕事をしやすくするために時を告げよう」という考えのもとで設置された漏刻ですが、

天智天皇自身もこれを守り、健康的な生活を心がけていたという説もあります。

また、漏刻の設置後、天智天皇は「これで朝廷の仕事が効率よく進む」と満足しましたが、

臣下の間では「時間をきっちり守らなければならなくなり、厳しい」という不満もあったとかなかったとか。

天智天皇の厳格さと臣下のリアルな反応が垣間見えるエピソードです。

中臣鎌足

中大兄皇子といえば、この人物は外せません。

中臣鎌足、のちの藤原鎌足です。

この二人が出会った際、蹴鞠がきっかけで親しくなったという有名なエピソードがあります。

蹴鞠の試合中に鎌足が意図的に皇子の近くにパスを出し、その巧みな技術に感心した皇子が話しかけたことから、二人の友情は始まりました。

その後、力を合わせ、蘇我氏を打倒することになりました。

この蹴鞠の一蹴りが日本史の大きな転換点を生んだと言われています。

そして、鎌足が亡くなる際、天智天皇は深く悲しみ、その功績を称えて、「藤原」の姓を授けました。

このことがのちに藤原氏が日本の政治の中枢を担うきっかけとなり、

天智天皇の人を見る目と、恩義を忘れない性格が表れています。

人の名前を覚えるのが得意?

多くの臣下と親しい関係を築き、彼らの名前を覚えるのが得意だったと伝えられています。

ある宴の席で、新しく仕えることになった下級の役人に対して、「君は○○の息子ではないか?」と声をかけ、予想外の言葉に驚いた役人が「そうです」と答え、感激してさらに忠誠を尽くすようになったというエピソードがあります。

仏教信仰

天智天皇は仏教にも関心を持ち、政治の中に仏教的思想を取り入れました。

しかし、仏教の儀式や教えに従って、厳格な修行をすることを試みた際の失敗談があります。

「断食修行」に挑戦したものの、初日で「もう無理だ」と根を上げ、僧侶たちを困らせたというエピソードがあります。

その後、「政治で忙しいのだから、自分なりの信仰でいい」と笑って語ったと伝えられています。

お茶目?

宴会や儀式の場で冗談を言ったり、臣下たちをからかったりする一面もあったと言われています。

ある晩餐会で、「私の政治について何か不満があれば言え」と臣下たちに問いかけました。

しかし、誰も何も言えなかったため、「みんな口が重いのか?それとも私が怖いのか?」と笑い、場を和ませました。

このような軽妙なふるまいは、リーダーシップの柔軟さとも言えるでしょう。

まとめ

天智天皇は、これ以外にもいろいろなエピソードをお持ちですが、

冷静な戦略家としての側面だけでなく、柔軟でユーモアのある人間的な一面が多くあります。

彼の行動や言葉は、時に人々を驚かせ、時に感動させるものであり、

日本史において非常に魅力的なキャラクターとして伝えられています。

最後に

諸説あり。

正しいかどうかは今となってはわかりません。

いつかタイムスリップができたら、実際に見に行って、確認してきてください。

いつになるかは知らんけど。笑。

では今日はこの辺で~。

また次回があればお会いしましょう。

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